1969~70年頃の東京(どちらかというと下町)というきっかけから [思い出]
やけに更新の早い裏面。22回目です。
今日も思いつきで「思い出」。ブログといってもリアルタイムではないですね。
東京オリンピックが終わって5年位たっていた頃。昭和でいうと昭和44年~45年くらい。
東京の下町と色分けされるエリアに住んでいました。父母は職住接近の環境で働き、僕は、小さな白黒テレビでウルトラセブンを見たり、駄菓子屋に年上の人たちにくっついて遊びに行き、家の前の公園で真っ暗になるまで遊ぶという、当時の典型的な下町の子供だったと思います。
周辺は、わりと川が多くて、親とバスに乗らないで移動をすることがあると(バス代節約だったのだろうなあ)橋を渡ります。
これが、何故か、橋の上の車の排気ガスはすごいのです。
ある種のバスやトラックのだけは、その後も今になるまで気にならないものもあるのですが、
目に見えて「煙」が通りすぎて、「におい」がまとわりつくんですね。ちょうど身長が低い子供の位置に。
その後、我が家は別の場所に引っ越し、だんだん、田舎暮らしへの道に進むのですが、
その最初の引越しとなる東京を離れるときに、件の橋を超えて行った映像が今でも、チラチラするのですよね。
寂しさとか、父母の表情なんんかと一緒に、僕にとっては、駄菓子屋とか公園とかと一緒に、「排気ガスの橋とも、バイバイだあ」と。
まだオイルショック前、高度成長の頃で、生産に勢いがあったのでしょうね。最近、下町(大分、雰囲気も変わっているのでしょうが)に用事があって歩いていたりすると、あの頃から比べれば排気ガスのにおいが、随分ましになったなあと、思い出したりすることがあります。喘息はじめ健康に関する問題もありましたし、色々な規制もありましたし、色々なことの結果なのでしょう。
「東京オリンピック前は、空がきれいで、星も良く見えた」話を、最近になって聞きまして。僕の知っている東京ではないな、と思いつつ、今回の経験を思い出したのです。
そういえば、当時は居住地域や親の用事の関係で、国鉄、都バス、都電以外の交通機関を利用しなかったのですが、
上野から浅草間だけの銀座線だけは地下鉄にのってました。
(浅草の手間で電気が消えて、車内のランプがつく地点が楽しみでしたね。当時の地下の上野や浅草の地下のお店や通りも。)
まあ、丸の内線位は絵柄はテレビで知っていて、そのうち東西線、都営地下鉄、相互乗り入れ等々徐々に覚えましたね。
気がつくと随分路線も増えました。
新しい地下鉄が増えて、「便利になった」のでしょうね。
時代も動きますが、注目の路面電車には、東京は戻れそうにないですね。
東京以外の街に期待でしょうかね。
東京は、交通渋滞を解消するために、都電を廃止したというのが子供の頃の記憶です。
事実かどうかは、確認していませんが。
仮に事実だとすると、本当に僕らは浮かれていたんだと思いますが、貧乏よりかは少しでも豊かさが欲しかった、
そういうことでしょうね。
でも、白黒テレビでも本当言ったら、十分、楽しかったなあ。
霞ヶ関ビルの時代からサンシャインの時代になって、ランドマークになり、六本木ヒルズやらミッドタウンの時代。
恵比寿駅にはビール工場があった。その後、列車でビアホールができたりと。
ガーデンプレイスしか知らない人も多いのですよね。
大崎も工場位しかなかったのが、インテリジェントなオフィスとタワーマンションの今風の街になって「えー」という感じですね。
品川も変わってしまったし、でもまあ、良かった面もあるのかな。
五反田が文化遺産の様に昔とあまり変わらないのが驚きではあります。
JR山手線を駅別に検証したり、眺めを点検したりすると、変化が分かるのでしょうね。
いつか、やってみよう。
でも、日暮里には驚きましたが。田端は大丈夫かなあ。
東京で生まれて国電に乗っていた自分には、山手線の駅はそれぞれに個性があって、いまだに気になるのです。
私鉄沿線に住み、通勤に使わなくなった今でも。
新橋のプラットホームに立つと、歴史を感じますよ。そういう方多いのでは。(乗り物好きですが、鉄男ではないです)
久しぶりの飛行機搭乗が近くなって参りました。あと少ししたら、気持ちを旅チェンジするかあ。
全ての音、風景が宝物ですが、旅はその極みで、嬉しいものです。
いつものB737-400。小型機ですが、大好きな機体です。
皆様も、毎日、良いたびであります様に
今日も思いつきで「思い出」。ブログといってもリアルタイムではないですね。
東京オリンピックが終わって5年位たっていた頃。昭和でいうと昭和44年~45年くらい。
東京の下町と色分けされるエリアに住んでいました。父母は職住接近の環境で働き、僕は、小さな白黒テレビでウルトラセブンを見たり、駄菓子屋に年上の人たちにくっついて遊びに行き、家の前の公園で真っ暗になるまで遊ぶという、当時の典型的な下町の子供だったと思います。
周辺は、わりと川が多くて、親とバスに乗らないで移動をすることがあると(バス代節約だったのだろうなあ)橋を渡ります。
これが、何故か、橋の上の車の排気ガスはすごいのです。
ある種のバスやトラックのだけは、その後も今になるまで気にならないものもあるのですが、
目に見えて「煙」が通りすぎて、「におい」がまとわりつくんですね。ちょうど身長が低い子供の位置に。
その後、我が家は別の場所に引っ越し、だんだん、田舎暮らしへの道に進むのですが、
その最初の引越しとなる東京を離れるときに、件の橋を超えて行った映像が今でも、チラチラするのですよね。
寂しさとか、父母の表情なんんかと一緒に、僕にとっては、駄菓子屋とか公園とかと一緒に、「排気ガスの橋とも、バイバイだあ」と。
まだオイルショック前、高度成長の頃で、生産に勢いがあったのでしょうね。最近、下町(大分、雰囲気も変わっているのでしょうが)に用事があって歩いていたりすると、あの頃から比べれば排気ガスのにおいが、随分ましになったなあと、思い出したりすることがあります。喘息はじめ健康に関する問題もありましたし、色々な規制もありましたし、色々なことの結果なのでしょう。
「東京オリンピック前は、空がきれいで、星も良く見えた」話を、最近になって聞きまして。僕の知っている東京ではないな、と思いつつ、今回の経験を思い出したのです。
そういえば、当時は居住地域や親の用事の関係で、国鉄、都バス、都電以外の交通機関を利用しなかったのですが、
上野から浅草間だけの銀座線だけは地下鉄にのってました。
(浅草の手間で電気が消えて、車内のランプがつく地点が楽しみでしたね。当時の地下の上野や浅草の地下のお店や通りも。)
まあ、丸の内線位は絵柄はテレビで知っていて、そのうち東西線、都営地下鉄、相互乗り入れ等々徐々に覚えましたね。
気がつくと随分路線も増えました。
新しい地下鉄が増えて、「便利になった」のでしょうね。
時代も動きますが、注目の路面電車には、東京は戻れそうにないですね。
東京以外の街に期待でしょうかね。
東京は、交通渋滞を解消するために、都電を廃止したというのが子供の頃の記憶です。
事実かどうかは、確認していませんが。
仮に事実だとすると、本当に僕らは浮かれていたんだと思いますが、貧乏よりかは少しでも豊かさが欲しかった、
そういうことでしょうね。
でも、白黒テレビでも本当言ったら、十分、楽しかったなあ。
霞ヶ関ビルの時代からサンシャインの時代になって、ランドマークになり、六本木ヒルズやらミッドタウンの時代。
恵比寿駅にはビール工場があった。その後、列車でビアホールができたりと。
ガーデンプレイスしか知らない人も多いのですよね。
大崎も工場位しかなかったのが、インテリジェントなオフィスとタワーマンションの今風の街になって「えー」という感じですね。
品川も変わってしまったし、でもまあ、良かった面もあるのかな。
五反田が文化遺産の様に昔とあまり変わらないのが驚きではあります。
JR山手線を駅別に検証したり、眺めを点検したりすると、変化が分かるのでしょうね。
いつか、やってみよう。
でも、日暮里には驚きましたが。田端は大丈夫かなあ。
東京で生まれて国電に乗っていた自分には、山手線の駅はそれぞれに個性があって、いまだに気になるのです。
私鉄沿線に住み、通勤に使わなくなった今でも。
新橋のプラットホームに立つと、歴史を感じますよ。そういう方多いのでは。(乗り物好きですが、鉄男ではないです)
久しぶりの飛行機搭乗が近くなって参りました。あと少ししたら、気持ちを旅チェンジするかあ。
全ての音、風景が宝物ですが、旅はその極みで、嬉しいものです。
いつものB737-400。小型機ですが、大好きな機体です。
皆様も、毎日、良いたびであります様に
2008-06-27 23:27
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