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1969~70年頃の東京(どちらかというと下町)というきっかけから [思い出]

やけに更新の早い裏面。22回目です。

今日も思いつきで「思い出」。ブログといってもリアルタイムではないですね。

東京オリンピックが終わって5年位たっていた頃。昭和でいうと昭和44年~45年くらい。
東京の下町と色分けされるエリアに住んでいました。父母は職住接近の環境で働き、僕は、小さな白黒テレビでウルトラセブンを見たり、駄菓子屋に年上の人たちにくっついて遊びに行き、家の前の公園で真っ暗になるまで遊ぶという、当時の典型的な下町の子供だったと思います。

周辺は、わりと川が多くて、親とバスに乗らないで移動をすることがあると(バス代節約だったのだろうなあ)橋を渡ります。
これが、何故か、橋の上の車の排気ガスはすごいのです。

ある種のバスやトラックのだけは、その後も今になるまで気にならないものもあるのですが、
目に見えて「煙」が通りすぎて、「におい」がまとわりつくんですね。ちょうど身長が低い子供の位置に。

その後、我が家は別の場所に引っ越し、だんだん、田舎暮らしへの道に進むのですが、
その最初の引越しとなる東京を離れるときに、件の橋を超えて行った映像が今でも、チラチラするのですよね。

寂しさとか、父母の表情なんんかと一緒に、僕にとっては、駄菓子屋とか公園とかと一緒に、「排気ガスの橋とも、バイバイだあ」と。

まだオイルショック前、高度成長の頃で、生産に勢いがあったのでしょうね。最近、下町(大分、雰囲気も変わっているのでしょうが)に用事があって歩いていたりすると、あの頃から比べれば排気ガスのにおいが、随分ましになったなあと、思い出したりすることがあります。喘息はじめ健康に関する問題もありましたし、色々な規制もありましたし、色々なことの結果なのでしょう。

「東京オリンピック前は、空がきれいで、星も良く見えた」話を、最近になって聞きまして。僕の知っている東京ではないな、と思いつつ、今回の経験を思い出したのです。

そういえば、当時は居住地域や親の用事の関係で、国鉄、都バス、都電以外の交通機関を利用しなかったのですが、
上野から浅草間だけの銀座線だけは地下鉄にのってました。
(浅草の手間で電気が消えて、車内のランプがつく地点が楽しみでしたね。当時の地下の上野や浅草の地下のお店や通りも。)

まあ、丸の内線位は絵柄はテレビで知っていて、そのうち東西線、都営地下鉄、相互乗り入れ等々徐々に覚えましたね。
気がつくと随分路線も増えました。

新しい地下鉄が増えて、「便利になった」のでしょうね。

時代も動きますが、注目の路面電車には、東京は戻れそうにないですね。
東京以外の街に期待でしょうかね。

東京は、交通渋滞を解消するために、都電を廃止したというのが子供の頃の記憶です。
事実かどうかは、確認していませんが。

仮に事実だとすると、本当に僕らは浮かれていたんだと思いますが、貧乏よりかは少しでも豊かさが欲しかった、
そういうことでしょうね。
でも、白黒テレビでも本当言ったら、十分、楽しかったなあ。

霞ヶ関ビルの時代からサンシャインの時代になって、ランドマークになり、六本木ヒルズやらミッドタウンの時代。

恵比寿駅にはビール工場があった。その後、列車でビアホールができたりと。
ガーデンプレイスしか知らない人も多いのですよね。


大崎も工場位しかなかったのが、インテリジェントなオフィスとタワーマンションの今風の街になって「えー」という感じですね。
品川も変わってしまったし、でもまあ、良かった面もあるのかな。

五反田が文化遺産の様に昔とあまり変わらないのが驚きではあります。

JR山手線を駅別に検証したり、眺めを点検したりすると、変化が分かるのでしょうね。
いつか、やってみよう。
でも、日暮里には驚きましたが。田端は大丈夫かなあ。

東京で生まれて国電に乗っていた自分には、山手線の駅はそれぞれに個性があって、いまだに気になるのです。
私鉄沿線に住み、通勤に使わなくなった今でも。

新橋のプラットホームに立つと、歴史を感じますよ。そういう方多いのでは。(乗り物好きですが、鉄男ではないです)


久しぶりの飛行機搭乗が近くなって参りました。あと少ししたら、気持ちを旅チェンジするかあ。
全ての音、風景が宝物ですが、旅はその極みで、嬉しいものです。
いつものB737-400。小型機ですが、大好きな機体です。[飛行機]

皆様も、毎日、良いたびであります様に[ひらめき]



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僕はドラマーが嫌いだった [音楽]

裏面の21回目です。どうも。RSSリーダーや収集エンジンが機械的にアクセスしている分もあるとは思うのですが、一人、二人位はたまに読んでいただいている気配もありますので、ナローに(狭く)良い感じで参ります。
遊びに来られた方には、感謝です。期待は裏切ると思いますが、まあ、覗き見感覚でどうぞ。


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話しがそれますが、21というとですね、私は巨人の高橋一三投手を思い出すのです。はじめてのグローブは親戚のお兄さんから譲ってもらったものだったのですが、親に買ってもらえるというので選んだのは青いグローブでした。
格好良くみえたんですよ、高橋選手の青いグローブが。勿論、高田選手(現ヤクルト監督)の青グローブも好きで、僕は自分の青いグローブに愛着をもってました。高田さんは外野(たしかレフト)からサードにコンバートされた頃で、独特のフォームでするどい送球にしびれたものです。

スポーツ観戦に興味がなかった私がたまたま、初めて見たプロ野球の試合は、NHKでやっていた、巨人中日戦。
与那嶺監督率いる中日がセリーグ優勝を果たし、強靭がV10を逃した試合でした。

王選手の714号、715号、755号、756号あたりは、毎日テレビで、まだか、まだかと見ていました。

そんな頃、サッカーに夢中だった少年達が三浦和さんだたり、中山さんだったりするのですよね。
それから、Jリーグでの活躍期間は短いですが、色々な逸話を残している水島武蔵さんとかね。
奥寺さんなどは、既に海外に行く直前の頃でしょうかね。たしか、もっと大きくなった頃に、サッカー少年達が口を開くとペレ、マラドーナ、ベッケンバウアー、奥寺という感じでしたからね。

主題に戻りまーす。

僕はドラムを少し演奏できます。以前は、起きている時間のまあ1/3とか1/4はドラム叩いている様な年もありました。
でも、最初はドラマーが嫌いでした。

初めて見たドラマーというと、テレビなどのバックバンドですね。あとGSのドラマー。スティックのもち方が、多分だめだったんですね。神様の様な、ジョージ川口さんとか、今なら深々と頭をさげなくてはと思うのですが。まあ、子供の頃見ていて、レギュラーグリップのスタイルがどうも、子供の私には格好良くは見えなかったんですね。
別の映像で、時代のせいなんですが、スーツきて、長髪でめがねかけて、レギュラーグリップで、薄い音で歌謡曲のバック。
見た映像がまあ、相性が合わなかっただけですが、印象がよくなかった。
(今見たら、かえって新鮮に感じると思います。ザ・バンドのドラマーは大好きですよ)

次に、ビリーコブハムとかに行く前に、つのだひろさんの写真を見たのですね。
すごい迫力があって。で、その後、何かの拍子に、ビリーコブハムも見たんです。似ているなと思っちゃったんです。
アクが強くて、もう、繊細な世界とアクの強い世界の両極端に混乱して、ドラマーへの印象が悪いほうに増幅してしまったのです。

音楽とは全く関係なく、単なる見た目ですね。本当、失礼な話で。
ちなみに、つのださんは、今の僕は大好きですよ。ただ当時はびっくりしたということで。ハードロックなど聞く前のお子様時代ですから。

ミカバンドの初代ドラマーですし、色々と実験的な試みもされてきてる方なんですよね。
メリジェーンだけの人ではないのです。

さて、そんな僕はラッパが格好良いと思っていたんです。えー、どこがー、と思う人も多いでしょうが、
日本だとトランザムとか。

ギターはうるさいから大嫌いだったんです。家に叔母が両替のために買ったストーンズのシングルがあって、聞いたけど、
幼稚園生の私には「うるさいよー!」という感じで。これがために、ギターが嫌いに影響があったかも。今は大好きですが。

バタやんのギターは平気なんですよ。よほど格好悪いといわれそうですが、演歌とかマドロスものの楽曲。
だから、なんだろう、なだこうじとモダンカンカンみたいなとか、玉川カルテット、かしまし娘なんてのは、好きなんですよ。
アフリカのレコードを無作為に買ってきたときは、「おーなつかしい」とか思いました。誰を聞いたのか、分からないまま、
レコードは処分してしまったのだけど。

さて、ドラムですが、たまにテレビで、加藤茶さんとか西条秀樹さんが、ドラムソロをやるコーナーというのがありました。
マッチドグリップ(加藤茶さんはレギュラーだったかも)でバシバシ叩いていて、格好良いのかもと思うこともあったのですね。
少しイメージが良くはなったかも知れないです。

でも、だいたい、ドラムの意味やら楽器の構成さえ知らない。

そんな私がある時、鼓笛隊で大太鼓(太っていたからです)の担当になって、運動会やら地域の行事やらで演奏しながら屋外を行進したりする様になったのです。大太鼓は私一人で、女子が小太鼓、中太鼓(スネア、タムタムという音色に近い)。
だんだん、太鼓の音に親しむ様になって。金管楽器とかフラッグなんて買えるほど資金の余裕はなかったのですが、創立100周年の節目だったこともあり、県の大きな行事に招かれてか呼んでもらってか分かりませんが、リコーダー中心の鼓笛隊(他の学校は皆金管だらけ)で演奏したのであります。私の太鼓からはじまる曲などで、楽譜にあるフレーズでなく、先生に提案してリムショットをいれさせてもらったりして、だんだん音楽の楽しみを覚える機会になった思います。

それでもまだドラマーへのイメージは変わらなかった。

そうこうしているうちに、小学六年生の春。一体型の小さいコンポ(今のミニコンポが横にひろがった感じ)を買い与えてもらったのです。親の知り合いのお兄さんが、YMOのソリッドステートサバイバーを貸してくれました。メタルテープにダビングして、毎朝、寝るときも「トキオ」とはじまってタイトル曲(B面ラスト)まで聞いてましたね。そのうち、クラフトワーク、細野さんのソロ(泰安洋行、はらいそ)もかしてもらい、クラフトワークにはまりました。音楽の影響ははじめの頃は、YMOよりクラフトワークから受けていたと思います。YMOは音がたくさんあって、難しく聞こえましたし。気がついたら、好きになっていたということで。

「好き」というのは不思議で、人や情報とつながってゆくのですよね。
テレビでライブ映像を放送するというので、当時の「東京12チャンネル」といった現テレビ東京の「パイオニア音楽館」(司会:小室等、セーラ)でYMOの最初のワールドツアーの映像を録画して朝となく、夜となく見ました。

中でも、多分NYでのプレイなのですが、ソリッドステートサバイバーのドラムが好きでした。ポラードのシンドラムを前に、スネアとバスドラとフロタム、サイドにアルトサウンドのDS-4。そして、当時にしては深胴のスネア(6 1/2インチだったでしょうか。当時は5インチが主流に見えていたので。まあ10インチなんていう人もいたらしいですが。そのうち薄いのが流行るんですがね。)
タムタムが前にないのが、その時は良かったんですよね。当時のずらり並んだタムというのが抵抗があって。
今は「すげー」と思うのですが。タタキこなせないですしね、そういうスタイルではないので。

さてさてYMOのドラムセット(あえて今日はドラマーの個人名は書かなくて良いでしょう)クラッシュシンバルが小さめで、
ぴしゃりという音で気にいる様になりました。その後、好みは大分変わってゆきますが・・・。
ハイハットも普通のロックがシャーシャー言っているのと違って(当時の私の耳のせいで、今CD聴いたりすると多彩な音があります。当然ですが)、粒と空気が一緒になっている様な揺らぎのある音に感じて不思議でした。それから、スネアのアタックの強い音は良かった。

何より、叩いている人が細い人だったので、本当にドラマーなのか?とおもったのです。
今見ると、まあ時代だなあと思うけれど、格好良さも感じましたしね。メガネなんかに。


気がついたら、音の出るものを見つけては、ソリッドステートサバイバー、ライディーン、テクノポリス、東風、中国女、ファイアークラッカーを叩いていたんですよね。シンドラのところは口で音出して。クォーンとかボーィとか言って。

こうして、いつしか、なんちゃてドラマーの道に足を踏み入れたのです。

でも、最初はドラマーに抵抗があったのですよ。今はむしろ当時苦手だった筋肉で叩くドラマーに憧れることもありますが。

そうそう、「アルトサウンドのDS2」を買ったのを思い出しました。

DS4は有名だったのですが、楽器屋さんが付き合っている卸になかなか話しが通じず、朝頼んで、ものが届くまで夕方までかかりました。田舎から都会に出かけたのですが、品物が来るまで暇つぶししてました。一緒にいった友達は退屈だったろうなあ。楽器屋ばかりにゆくし、意味わからないし。プロフェット5なんかもあるのですが、使い方分からないから、鍵盤さわるだけで


大人になったらプロフェット5(定価:170万)を買う、などと良くノートに書いて夢を見ていました。
プロになった人は別として、同じ様なこと考えていた人いないかなあ。
イーミュレーターあたりになると、金額のかさがちがってくるし、シングラビアとかフェアライトなんかも桁が違いますからね。
プロフェットはデザインも良かったですね。いまだに、僕は使い方知らないんですが。

さて、DS4は15万位した様に思います。DS2は5万弱くらいで・・高いのです中学生には。どうにか手が出る商品だったのです。中学生の頃でしょうかね。DS4(YMOが出した音のうちの一部ですが)の音は、性能の違いで出せないのですが、類似の音は出せました。

しかし、実は何よりも、プリセットされている、スネアとシンバルとして、ピンポン録音での音楽制作に大活躍しました。
このDS2があったから音楽を創ることを始められたし、ドラマーへの抵抗感が薄らいでいったのであります。

近しい時期に、生ドラムも仲間と共同で手に入れていたと思うのですが、単独のものとしては、私のドラムはDS2ですかね。
コンピュータで叩かせたわけでなく、自分のスティックで叩きましたし。

こちらのドラムの話は、いかにしょぼかったけど、嬉しかったかという話しをいつかしたいです。


さて、今は、テノリオン、カオスパッドがあって。私MC-500というシーケンサーを持っているのですが、記録媒体の2DDというFDがもう売っていないのですよ。改造すればね、きっとなんとかなるとおもうのですが。
まあ、とにかく、今はもう生音もシンクロしてMTRに録る必要もなく、ハードディスクに軽いノリで取れるのですものね。
ギターもアンプシミュレーターがあり、スタジオで録らずとも、相応のクオリティーは出るのでしょうね。

今、良い時代ですよね。楽しそう。エレクトロニカでも、最近のテクノでもDTMのソフトをばしっと揃えなくても、楽しめるのはいいですよね。

清志郎さんの以前の作品に高齢化社会(だったかな)というR&B(今のじゃないよ。リズム&ブルース)があるんですけど、75歳のDJとか出てきたらいいよね。三橋美智也と村田英男と春日八郎とか。民謡ナイトとか・・・。

だいたい60歳の人はビートルズ世代だし、その上はベンチャーズだし。マンボ、タンゴもありそうだし。

20代、30代ばかりでなく、まあ歌はちょいと抵抗あるのも出てきそうだけど、オリジナルをやる50歳以上のアマチュアが増えたら、いいだろうなあ。

街でギターを弾く70歳。これもありでしょ。自分がやれって?考えておきます。何か。


(いつかに続く)

BANG THE DRUM ALL DAY[パンチ]

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番外編4回目(6月23日は沖縄では慰霊の日) [知る努力と勇気]

連続投稿ですが、番外編。4回目。

6/23という日は、沖縄では「慰霊の日」。追悼式典などのニュースをご覧になった方も多いと思います。

また、八重山(石垣島があるあたりの、現在の日本の中台およびフィリピンと国境を接する地域)では、戦争中の強制疎開のために、疎開先でマラリアで亡くなった方を追悼する式典も行われる日であります。

私は歴史の専門家ではないので、伝えたいことと今回は少々縁遠い、例えば、先の大戦の世界の他地域での惨劇、大日本帝国が他国にした人道的に赦されないことについてのお話は触れません。

さて、先の大戦に関連して。
当時の日本、末期はどの地域の生活も、どの階層の人々も相応に苦しい生活で、空襲の恐怖、被害があったと聞き及びます。

都市、工場地帯への激烈な空襲、そして広島、長崎への人類史上、唯一の原子爆弾投下。(原子爆弾は、是非は語れませんが、罪に対する罰があまりに大きすぎた、そう思うことがあります)

私は、どうやら大和人という様に分類されそうですが(顔つきは弥生系ではないので、純粋な大和人かは不明ですが)、すこし沖縄に触れたいと思います。
沖縄の血を継ぐものではないので、意見は言えないの気がしていますが、気持ちを。


沖縄はペリーが江戸幕府に開国をせまる前に、最初に開港させられた、前線になった土地だそうです。

当時の沖縄は一つの王朝であったわけですが、日本からみると島津藩の支配下。

アメリカからは最前線として位置づけられ、攻略された。

先の大戦でも、南の最前線は沖縄になってしまった。(満州、樺太、北方の各島の話も触れません)公式な文書含め様々な文書で検証したわけではありませんが、唯一の地上戦と紹介されますが、当時の責任者達にはどういう見識があったのか、月並みかも知れませんが、私は疑問に思っています。

戦艦大和は沖縄に向かう途中で猛爆撃に会い沈没。本土への上陸阻止の時間を稼ぐという、なんとも惨い任務。
海に消えた命を冒涜するつもりはありませんが、作戦の内容から沖縄を別とした印象を受けるわけです。沖縄の大事さが分かっていたら作戦も異なっていたでしょうから。

関与が色々といわれていますが、大日本帝国の軍隊が、現地住民の命を守ることができなかったこと、集団自決さざるを得ない雰囲気づくりに関与したことは、証言を耳にし目にすると、疑うことは難しい気はしました。
また、軍に所属する人たちが、隠れる住民を追い出して危険にさらしつつ、延命を図ったケースがあるとも。
兵隊も赤紙で強制的に徴兵された方もいるので、一概に責められないとは思いながらも、沖縄のジャングルでひっそりと息を静めているところをです。

軍も限界点を越えていたのでしょう。軍人も同じ日本人だったとして語るとすれば、悲劇が連鎖した状態といえましょうか。(沖縄の方には許容できない表現でしょうけれども)

ということもあり、戦争のイメージが強いので、例えとして使う言葉そのものは別として、私は当時の大和魂というのが大嫌いです。無理は無理なので。我慢を強いる精神性傾注は・・・・あくまで私は好みません。

さて、命拾いをした方もいらしたそうですが、自決と言う行為で命を落とした方には、本当に言葉がありません。

日本の軍隊ではなく、当時の敵であったアメリカ兵に助けられたという話を聞いたことや映像を見たことがありましたが、
交戦中は隠れている洞窟などに手榴弾を放り込まれたりしたという話しも聞きました。

救われない気持ちになります。

以前、サイパンに行ったことがあります。島の北に参りますと、民間人が飛び降りた崖が今でもそのまま残っています。直下はジャングルです。私は直接は見学できなかったのですが、バンザイクリフという悲劇の崖(下は海)もあると聞きました。
民間人が最後の最後は追い込まれて、命を落とされたのです。本当に救われない気持ちになるばかりです。

戦争自体に救いはないと思われますから、あたり前ではありますが。

時代に逆行しているのでしょうが、グローバリズムというのが、少々苦手な私です。
人間という動物の幸福や、精神の改革につながる様な意義を覚えないのです。

うまく言えないのですが、グローバリズムはどうも、武力的なものと近しい印象があるのです。何故でしょうか、自分でも分かりません。たまたま、この数年間におきたことと、オーバーラップするからでしょうか。

スポーツやゲームの勝ち負けでなく、何か人間の存在を脅かす様な、無理やり勝ち負けの世界に引きずり込む様なそんなコワさを感じるのです。

沖縄戦。触れましたが、申し訳ないですが、お分かりの様に、私は詳しくは存じてはいません。
何冊かの本、写真集、ドキュメンタリーを拝見して、見るたびに救われない気持ちになる、ただそんな人でしかありません。

日本は、本州中心に工業製品や知的労働で世界にのし上がった(過去のことでしょう、そろそろ)と、ものごとを考えがちな気がします。

しかし、ベースになる安全保障上の部分で、基地問題だけでなく、多くを沖縄に依存している実態があるということにも目を向けたいなと思っています。海の国境線の中で、冷戦終了後、今でも緊張状態がある地域があるのです。(私は緊張がない方が嬉しい派ですが)

自衛隊や海上保安庁の配備の話しは、これまたナーバスな話しなので避けますが、
いずれにしても、そこに住民が暮らしていることによって、日本の緊張度の高いある領域を守っているという実態があるということです。

本当に美しい空、海、まあ昔ながらの街並みや自然が残る地域も多いと聞きます。郷土への愛着はとても強い。
そういう場所と暮らしがあって、つらい過去に今でも向き合って、受け止め、しかし、しなやかに人生を歩んでいる人たちが、暮らしている。

私の現時点の整理は、まだまだ中途半端だろうと自覚はしています。
ただ、昔の反省をするために、事実をただ受け止めてみたい。まだまだ知らないし、偏見をもって理解をしている気もしますので。知ることで、沖縄から遠ざかりたくなる可能性もありますが、それでも、自分の頭と心で考え感じて、心に留めながら、暮らしてゆければと思うのです。

さて、軍隊は組織中の組織だと日ごろ思っています。最近また、文民の社会にも似た組織はたくさんある気がします。かつては経済戦争という言葉があった位ですし、不祥事が多いですね。風通しが良くても、告発されるまで改まらない。自滅寸前のいけない状態で動き出すから、他人にも組織にも良いことがない。

願わくば、人類普遍の正義や幸福という理念があるのなら、その理念にたてなくなりそうな時、自己変革できるものであって欲しい。他に害悪を与え、自らも滅びるだけでは、あまりにも悲しい。

戦争が自国で起きるという状況とは幸いにも遠くなった日本の暮らしですが、類似の悲惨なことは、そんなに遠い訳ではないのかも知れないと、ぼんやり思うのです。



戦争ではありませんが、私の祖母は関東大震災を生き伸びることができました。
田舎に帰り、母が生まれ私がいます。命そのものに感謝したいと思います。[満月]



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猫をみた [断片]

散文詩風なものはMyspaceに書いているのですが、
たまには裏面に。20回目。


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無題

雑踏を逆流するように、はじに にげる野良猫を見た。
左足をつくのが痛くて、たまらない様子だ。

でも気は強そうな眼をしている。

心配でかけよりたくなった・・・が、野良猫の生き方もある、
それにスーツ姿でカバンをもって、こんな街中で何をしようというのだろう、自分。

そう思い猫を見たら、視線があった気がした。

私は、その場から離れ、歩き始めた。
数歩歩いて振り返ると、また視線があった。

こんな雑な街の動物こそ救われて欲しい、そう思ったが、
彼もしくは彼女は、「何見てんだ。気になるなあ、何かくれるっていうのか?」
僕の偽善を見透かしてそう思っていたのも知れない。

この街の野良猫はそういいそうな感じもする。
僕が住んできた街の野良猫たちとは、大分違う。

近くの有名な公園に捨てられ、後に街にでてきた命なのか、
この厳しい街で続いてきた命なのか。

言葉にできないのだが、なぜだ今日は一日中、
彼もしくは彼女を見た一部始終が気になって仕方がなかった。


勝手に心を痛めただけで、彼もしくは彼女の救いにはならぬ日
でも願わくば赦されたいという図々しい私がいる[雷]
タグ:野良猫 偽善
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はじめて鳴らした楽器 [音楽]

久々、裏面の19回目。裏面は、なんとなく、気楽な気分でないと書けないみたいです。今も気楽ではない世界で、そして日本でありますが、少し希望が見えると思って、復活です。


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(とりわけ拘るわけではないのですが)今日、ベースを持っている高校生を見たんですね。その人は体は大きくない。
で思い出したのですよ。初めて触った弦楽器が、友人のお兄さんのベースだったこと。

お互い小さかった友人と二人で自分の家までもってきて(重たいのだ)、そして小さい体にかついでみたこと、
弾いてみたこと。アンプなんてもってないから、生の音を聞くわけです。アコースティック楽器でもないのに。


中学生くらいでしょうか。ガットギターも触ったことのないのに。リッケンバッカー(タイプの)ベースでした。
硬くて、重くて・・・・。でも格好良かったなあ。

その後、別の友人のお父上がもっていたベースを借りて、これはフェンダータイプ。(忘れましたが、要は国産のコピーモデル)
いくらか、弾きやすくなってきた気がしました。なれでしょうか。

高橋幸宏さんの「薔薇色の明日」のバンドスコアを持っていたので、「蜻蛉(かげろう)」のベースを最初にコピーしました。
これは、それなりにがんばって、できる様になった。スライドも、チョッパーも少しだけあるのですが、素人なりには満足はした感じでした。その後に、YMOの「東風」にトライしたのですが・・・挫折。難しい。

フリーの映像サイトに、この曲のコピーが上手な方の映像がアップされていまして(友人からの連絡で見ました)、
自分にベーシストになるセンスはなかったことが、何となく分かりました。

ドラムを少し演奏できるのすが、ベーシストと息を合わせることは好きですけれど、ベースの様に曲のリズムとノリとある種の雰囲気も構成しつつ、周りを全て冷静に見回しているという役回りは・・・無理です。ドラムも同じセンスがいる気はしますが、まあ私の好きなスタイルは「太鼓や」さん的な世界なので、ナーバスになれず・・・成長がなかったです。でも、色々なスタイルにチャレンジする価値はありますね。いずれ、また挑戦しましょう。


ちなみに、一番最初に真剣に演奏した楽器は「ハーモニカ」。小学1年生の最初に授業で「ひのまる(だったかな)」が課題だったのですが、吹けずに居残り特訓を受けたのです。居残りは、恐らく学校生活でこれ1度きりです。
居残りが終わっても、くやしてく、家で一人で本当に涙をながしながら、その曲を吹いてました。
(ちょっと、変?)

今でも、忘れてないんですよね。

はじめてドラムを叩いた時のことも。その話しは買うまでの道のりもありまして、相変わらず私的なことですが、いずれまた。

今日はブラジルに日本人の移民の方が到着してから100年目の日。
詳しくはないけれど、

一部の地域に限らず日本国中からブラジルに渡った先人がいる。

限りない尊敬を込め、そして、だからこそ、私は今に感謝させて頂きます。[晴れ]

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番外編(3回目かな)1秒は1秒のままでいい。効率化とか反対したいなあ、そろそろ。 [断片]

番外編です。3回目だったでしょうか。

最近は過ぎた時間を愛おしく思ってしまいがちのせいか、まあ過ぎた時間には寛容。
(赦されないことも、たくさんありましょうが)

とある雑誌で「いるもの、いらないもの」を、わりと良くモノを言う人たちが書いていたのであります。不謹慎ながら、面白おかしく拝見しました。いやあーそうでないと、真剣に「そうだ」とか「いいや」と感情移入しそうだったからなんです。

思えばですね、不満は多分ないと思っているのですけど、大人になったということ以外に、いつからか「この街はつまらないなあ」(帰ればと言われれば反論できないですが)と思う瞬間が時々あったのです。かつて。
勿論、好き好んで都会暮らしを選んだからということも自覚してるのですがね。

欲望の消化効率があがるとか、確率が向上するとか、そういう損得勘定が魅力にあったんだろうと思うのですけど、
都会に行きたかったし、今の暮らしにつながるので、それはそれで肯定はしています。

でも、愚かしいことを書くのですが、「効率」が一体誰を幸せにし続けているだろうかと、悲観してしまう部分もあるのですよね。
洗濯機、掃除機、炊飯器とかのレベルではなくてですね。

車輪を回しつづけるハツカネズミの様な気分にならないでもない。それをいっちゃ御仕舞いだよってことなのでしょうけれどね。
音楽の話題などではないのですが、1秒は1秒でいいだろうと・・・いいたくなったのですね。

深い意味を込めることはできない(思索が浅薄なので)のですが、じっくり、1秒を噛み締める様な感じ方にこだわりたいなあと思うこの頃なのです。

こうしてパソコンで好き勝手なことを皆様に放言しているということは、少し矛盾しているのです。承知しています。
ですが、「スカスカだなあ」とか「不便だなあ」という話題にもたまには出会いたいということなんですね。

今の都会も、今の少年達には「ワクワク」することが、たくさんあるんだろうと思います。いつかの自分もそうだったし。
そう想像しつつも、昔でも過密などと言われていたのに、さらに窮屈になってゆくのは何故だ。

買い物は、おやじさんと会話もできる普通のお店があって、なんとなくいつも見る顔があって、「お、高校入学したんだあ」とかまあ、おせっかな監視もあって・・・そんな暮らしを、いつ壊しはじめたのか、どうやって加担(したんだろうな)したのか、覚えていないのが、実に悔やまれる。コンビニ弁当などを食べた自分がいけなかっただろうか、仕方なかったのだろうか・・・。


放置できなかった経緯が色々あるのでしょうか、「便利で儲かるなら、問題ない」と、いつまで太ってゆくつもりなのだろう。地球温暖化や各種資源のお話は専門家でないので、因果関係を断じることができないけれども、保健福祉や環境で目指す方向性と国土保全や産業構造転換や各地域での雇用創出との兼ね合いとが、もの凄くねじれている気がしてしまうのです。

色々な利害からご立腹される方も多いとは思うのですが、今日、バスを見ていて思ったこと。
バスはこの40年、時代に寄り添いながら、状況をわきまえた生き残り方をしてきたのかも知れないと、思ったのであります。
路線の増減はあるだろうけど、変わったのは、車体、デザイン、運賃の支払い方、情報提供くらいで。いつもの停留所で、生活空間をきっちりつないできた。タバコ屋がマンションになったり、学校がxxxセンターに変わったりしているが、停留所にバスはくると。バスは待つ。渋滞の影響で時間に遅れる可能性がある。でも、変わらない温かみを感じたのですよね。
(安易なノスタルジーとの批判は否定しません)

最近の関東の鉄道を中心にした整備、商業空間、居住空間の大規模開発や高密度建築を眺めるにつけ、利益を享受する立場である一方で、このままでいいのかなあ、と物憂げになる日もあるのです。

パラダイムシフトしたのだろうから杞憂なのだろうけど、かつての夢の団地だったところではコミュニティーの維持や独り老人問題との関わりで頑張ってらっしゃるところが多いと聞くことがあります。

この数年で随分変わった関東平野。大規模災害があった場合に、どういう光景として残るのかと想像すると、私の貧困で悲観的な想像からは、少々怖い光景も・・・浮かばないでもない。
(でも、前向きにゆきたい)

時を戻すことはできないだろうけれど、やはり、少々、政権、政治家、地方自治体が標榜している暮らし方と、企業経営、利用者との相互作用の結果としての経済活動のアンバランスは感じてしまうのです。

あいまいな表現ですが、隙間がなくなって、本当なら人の目も利いて犯罪などもへったはずなのだろうけど、無関心の巣窟になっただけだったり。奨励はできないのだろうけど、戸外生活せざるを得ない人の居場所がなくなったり。
かつて、そういう方達は、ある街のあるエリアにいけば、まあいて普通だった。街中に傷痍軍人さんがいる街もあったし。

国際都市になることとの引き換えだったのでしょうね。多分。国際都市になったといっても、別に時の政府が標榜する経済を中心とした復興の延長であって、他のことは多くの犠牲と、力があってお世話になっている国の皆さんについてきたということに見えます。(教科書を見てはいないですが、世界史の中に日本国になってからの日本の歴史を位置づけるとそう見えるのではないかと、一面では想像をするのです)


ということで、「社会主義」からの脱却を要求されることもあるとは言え、中央政府も少しは関心もってくれても良い気がする、この頃。税収も時間も限られていて、借金も恒常的に返し続けてゆくのだが、いいのか、このまま突き抜けていって。


耐震偽装の事件の関係で、建物の堅牢さ、円滑な審査には関心と監視が行き届いているかも知れない。また住宅着工件数など経済指標への影響にも関心が高い様だ。関係業種の業況、投資環境としての価値アピールという点で広く景気という面でやむを得ないでしょう。

ただ、災害時に本当に助かる命の数への影響(リスク増加といってもいいだろうか。ないとは思えない)や、ライフライン復旧コスト増加懸念とその負担はどうするのか、誰がコミットしたのか?、少しは点検や監視があっても良い気もする。

災害時など、困ったことがあれば、皆が助け合って、命を守るのは当然。

そういう話とは別に、不測の事態に対しての備えや、各種の態勢整備の考え方が分かりやすく整理されていて欲しいという気がするのですね。各自治体単体ではなく、関係する広域な自治体間のある程度の整合性も保って。
(既に行われていて、情報にアクセスしていないだけなのでしょうが、隣接圏の人である私があまり見解を見たことがないので、もしきっちり定まっているなら、多少広報が足りないのではという気はします。議会の議事録を見よといわれるとちょっと寂しいですが)

交通が便利になって、夢のある居住空間、ワクワクする商業施設は嬉しい。
その一方で、過密さが、仇にならないか、居住地域外も含むので、主として消費税のタックスペイヤーとして、ぼんやり考えるのであります。
政治家でも役人でもないし、それら施設を利用もするのだから、言えた立場ではない気がしつつ。


最近はまた話題にならなくなったけれど、大深度地下鉄というキーワードがありましたね。
お話として、そのままというのも、ありではないでしょうかね。地底国家創造みたいな感じで[ひらめき]




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第54回東京馬術大会CDI*** TOKYO 2008に少しおじゃましました [お昼休み]

裏面の18回目です。[時計]


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表向きの出来事は表のサイトでかかれそうなので(私も参加している場合もありますが)、相変わらず、誰に話すでもなく、
地味に参りますよー。(時々カブリますが、まあそれもよしと)


今日は実は午後からのお仕事で、たまたま数時間だけ空き時間がありまして、丁度お昼ご飯の時間がすっぽりと空きました。
「吉野家の牛丼でも食べて・・・」などと、安易に考えていたのですが、少々寄り道をしたことから思い立って、

とあるお店でパンを買いまして、馬事公苑に参りました。
馬術部出身でも、地域の倶楽部に入っているわけでもなく、アウトドアでお馬さんと遊んでいるわけでもないのですが、
急に馬に会いたくなったのです。

と言って、どこでどうしたら良いのかあてがあったわけでなかったのですが、馬事公苑の外側にたどりついたら、
「第54回東京馬術大会CDI*** TOKYO 2008」をやっていたというわけです。

入り口の方に聞いたら、会場内で飲食してもまあ大丈夫ではないか、ということでしたので、
お言葉に甘えて敷地に入ってゆきました。(馬事公苑に隣接する別の敷地の様でした)

道すがら、厩舎に(出場馬だったのだろうか)お馬さん(サラブレッドだそうです)がいまして、
格好といい、目といい・・・癒されたのでありますよ。

さて、会場は巨大な体育館内の様になっていて、室内に馬場がありました。本日の東京地方、日差しがとても強く暑かったのですが、冷房をしているわけでもないのに涼しい中、競技が行われておりました。
私、詳しくないのですが、馬術で最近2度目のオリンピック出場を決められた男性の方がいらしましたが、
その方のおやりになっている演技などに似ている風でありました。
障害とかはなく、小刻みにステップを踏んだり、会場の枠をギリギリに斜めにあるくとか、緩急をつけた走りをするとか、大きく、小さく、8の字風に回るとか、そういう感じでした。一見静かに見えるのですが、馬達はぜいぜい言っているわけです。
最後は騎乗している方も馬とダンスしている感じになって「ハードな世界だ!」と思いました。
なんか、パンなどかじってみている自分が不謹慎にも感じられ。

でも、とても嬉しいラッキーもあって、私の勘違いでなければ、馬の彫刻でとても有名な、
西村修一さんがいらしたこと(!)。私の目の前を通って、ゲスト席につかれるお姿を拝見しました。

ご病気をなさった時に自分のお墓代わりといって、制作された馬の彫刻が馬事公苑にあるというお話だけは聞いていたので、
ご本人かと思うと、なんだか、ありがたい気分になりました。[ぴかぴか(新しい)]

今日は、お馬さんに呼んでもらったのかも知れないなあ、と思った1日でした。

馬術大会のスポンサーはエルメス(!)表には美しいスタイルの女性が馬術道具を展示、紹介されていて、
「あー乗馬ってはオレの入る世界ではないなあ」と現実を直視できたのも、まあ、良いことでありました。

また、厩舎をとおり、馬達(大きい!)を眺めながら会場を後にしました。まあ、馬だけじゃないけど、人間と暮らしてきた動物の目には色々な思いが去来するなあと思いました。[目]

極短い時間でしたが、そんなお昼休みをとり、会社に参りました。
大きいサラブレッドを見て感動しつつも、また、いつか、ヨナグニウマと遊びたいなあと思ったのであります。

乗馬専門から入ろうという方にはお勧めを躊躇しますが、小さくて、人懐こくて、結構身勝手なそんな個性あるウマがいます。
どうですか!ヨナグニウマで検索してみては。私自身が自分で体験したのは与那国島と伊豆です。他の場所にもあるみたいですね。ポニー乗馬やミニチュアホースと触れ合っても、楽しいでしょう。でも、ヨナグニウマお勧めです。ヨナグニジマにゆくとなると、旅行も兼ねてゆくと、新しい世界が開けると思いますよ。[グッド(上向き矢印)]

では、今日はなんだか、最後は与那国の紹介になりましたね。では、また。[手(チョキ)]

そういえば、場所は書けませんが、東京で「ブーゲンビリア」が咲き乱れている場所に遭遇して、しばし絶句しました。
花の名前には疎いので、少し自身がないのですが、おおよそあたっているかな。

私がものをしらないだけなのでしょうね、ハイビスカスだって丹念に手入れされて咲いていたらビックリするのだろうし。
下町なんかいくとこの時期、ぼちぼちアジサイなんか、良い感じに咲き始めていて、公園と自分の庭と道路と境が曖昧になる風情がいいですわな。(わかった風な書きぶりですみません)

話しをもどしますと、ものすごく、普通のしかも「えー、ここにねえ」という場所に手入れされて、咲いていまして。

それで「竹富島」でみたときの記憶を呼び起こされたのであります。花がたくさんあった時だから、初めての時かな。
「あーやっぱり今日は色々と呼ばれているのかなあ」と霊感なぞ微塵もない私もさすがに何か見えないテレパシーの様な
ものを感じた1日でした。面白かったです。

BRAND NEW DAY![晴れ]



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