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「せんしんこく」ではない「にほん」とか [断片]

番外編つづきですが、その6。

僕らの国は国の中にも外も「きっぱり」できないことがたくさんある。

国際社会の潮流かれずれないため、とか、
過去に甘い汁を吸ったの代償、とか、
大昔からの数十年前までの感情的には永遠に清算されないであろう、非人道的な行いに対する色々な要求とか。
(私達の方にも色々ありますね、他国に対して)

こういうことには、打たれっぱなしにはなるのは仕方がない。さすがに尊大にはなれない。

しかし昨今は、外からは都合の良い「仮想敵国」。
また「もはや有望なマーケットではない。草刈場ではあるが」というのが、外から見た「にほん」のある種の1面ではないか。

真逆の考えの方が、前向きで、元気がでる気はするけど、現状では無理を感じる。

社会も色々疲れているのだし、「先進国」からおりる位の覚悟をもって(右派というわけでない)
「にほん流」を打ち出せないのだろうか。(知らないだけで・・・既にあるのかも知れないけれど)

過去の歴史は認識の相違も受け止めつつも、筋があるのなら「たちば」は変えずに、
握手する姿勢も持って、独特に生き残る選択を考える時期が来ているという感じがする。

例えが適切ではないが、多様なアジアとアメリカを政治的に両にらみするのは、
限界がきているのではないか。

政治的エネルギーに比べて、収穫が少ないし、むしろ敵も増やしている印象がある。
胸を開いた分だけ、聞く耳を持つわけだから、当然だが。
(それこそが存在価値というご意見もあろうが、その考えを並存させて
別の路線も探る必要はあると思う)


個人的には、誰とも摩擦を起こしたくない考えの持ち主であるし、
できれば各種の国家権力を礼賛する関わりは持ちたいとも思わない。

が、国民には、「くに」の(地図上の)形にはこだわる権利はあると思う。
「くに」を捨てないという前提であるが。

すぐには考えにくいけれど、アメリカさんが、ミサイルディフェンスだけ残して、
日本から完全に撤退したと想像したら。

「くに」の周辺がいかに脆弱か、今より気付く機会が増えると思う。
(例えで、基地存在を積極的肯定しているのではない)


命に関わるものも含めて生活物資を輸入に頼る「にほん」。
漁業も含めて、原油高の比ではない不安材料が顕在化・・・
するのではないかと想像する。

経済制裁などを除けば、運用には注意が必要ながら、
言論だけが「にほん」が行使できる唯一の力。

いつか通ってしまった道を歩かない様に冷静さを保ちつつ辛抱を。
そして、対話の舞台からおりず、筋の通った主張を軸に妥協する持ち玉を選ぶ戦術を、
新しいリーダ達が我々に見せてくれることを期待します。

社交辞令は別として、アジア的な曖昧さにあまり期待すると、
民の側としても読み違える様には思えます。
やはり、日本は特別な環境下の国家と認識した方が、
かえって摩擦は少なく合理的に対処できるのではないかと。

人や文化交流では同じアジアという意識はとても大事です。

が、政治はある種はかけひきと思われ、
かけひきでは他のアジアの国々は歴史的条件や経緯もあり、
「にほん」より潜在能力が数段上であると認めておく必要があると感じます。

「にほん」が先進国という名前で安心している時代とは、変わってゆく気がします。
残念であるし、後ろの世代に対して無責任でもありますが。

舵をきる時が来ているのでしょう。動きを注視したいものです。ゆっくりのこと、はやいこと、色々ですが。[目]

リーダー達は高所からお考えとは思うのですが、是非、「にほん」流の合理とは何かを示してもらいたいのです。


さて、次回は、少し時をおいて、お気楽になったら、また裏面の本流をやりまーす。失礼しました。[猫]

ともかく、水分補給はわすれずに[たらーっ(汗)]

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