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思い出だなあ、今日は。南房総(内房)ネタ。夏祭りとか。日々の暮らしとか。 [思い出]

246!!!!意味はないけれど。

裏面の246回目です。


転々として今があるのですが、

一時期、内房にいたことがありまして。

生まれも、血筋も縁はなかったんですが。

当時は製鉄で栄えていて、親の仕事の関係でしょうかね。


家は山(千葉の山はなだらかですが)の麓の、

テンだイノシシが普通に出てくる場所でした。。。

でも、港町や海もバス乗ったり、自転車のったりでいけて。

不便だと文句をいいながらも、慣れれば、平和で、楽しいところでした。

さてと。

思い出の本題に。

ちょっとね、信じられない程(どうやって、これで音頭をおどるんだあ)

アレンジが変ってますが、君津という街の音頭を。

これ、音頭かな。。。昔とはアレンジが違いすぎで。。。

市民や作者には悪いけど、このオケヒット系の音と、妙な16分は

どうだろう、、、まあ、でもいまはこれしか音源がない模様で。

(アップされた方に感謝です)

新・君津音頭 ニコニコ動画ですね。こちらは。
http://www.nicotwitter.com/watch/sm6496521


歌詞は多分同じで、メロディーもほぼ同じだけど、

もっと太鼓も入っていたし、都はるみが、こぶしをね、

こうまわしていてね。ノリの良い演歌音頭みたいでしたが、

変ったなあ。


私が子供で盆踊りなんぞを団地で踊っていた頃は、

「君津音頭」と言い、シングル盤も元々の地元民の家にゆくとあってね。

あまりに好きな音楽になっていたので、借りてきて聴いた位。

原曲の魅力はすごいんだけどなあ。

盆踊りでも、都はるみが歌っているから、かなり盛り上がりました。

炭鉱から製鉄に仕事を変えてきた人も多かったので、

九州、北海道、岩手(釜石)等々を中心に全国から人が集まっていたので、

まあ、炭鉱節だの、北海盆歌なんてのも盛り上がってたけど。



言葉もすごく混じっていたけど、色々オープンな雰囲気がありました。

地元の人達からは団地の人的な目があった様な気もするけど、

うまく棲み分けていた様な気がします。

言葉も、沖縄でいえば、ちゃんぷるーでしたよ。

地元のなまりと、北海道、九州に東北に。

東北も岩手もいれば、宮城もいるし。青森の津軽もいるしで。

あとボチボチ、東京や、うちみたいに石川県なまりを温存している一家。

本当に意味の分からない言葉が飛び交っていることも多かった。

でも、皆、それで笑って酒飲んでんだけどもね。


生活習慣も言葉も食生活から、みんな違うわけでしょう。

でも、平和に見えたなあ。子供の目線では。

コスモポリタン(似合わないか)な、感じでね。


地元の友人達の集落にいくと、確立された文化とか暮らしが

きっちりあって。

ただしい農村とかね。そういう。


ともかく、

今の私の形成にも少なからず、影響があった土地でした。

音楽やその他の創作活動と関係してくる方々との出会いを

導いてくれる先輩方にあったのも、この土地でしたからね。

楽しかったなあ。苦労もした気はするけど。


一人で抱えていれば良いとはいえ、思い出がたくさんでね。

語り相手のかつての、その土地で出会った友人達とも、

会っても、今じゃそんな話しないだろうしね。

結局はノスタルジーなんだろうしね。

でも無視できないというか、最後はバタバタと、

私も、両親も学校や仕事の都合でオサラバしたので。

強制的に時計が止まっていて。

私の人生は強制終了が多くてね。(笑)


最近、グーグルとかで見ると、様変わりしていて。ちょっと寂しいかなあ。

仕方ないけどね。

同窓会とかでなくね、

かつて暮した街を都会の様に好きに散歩できたら一番なんだけど。

いい、とーちゃんが一人であるってると、ちょっと怪しいからね。

いつか、誰かを誘って実現したいものだが。


まだ早いかなあ。


で。君津の音頭が原曲がないんで、となりの木更津のをね。

アナウンスが大きめですが、音楽も入っているので、

やっさいもっさい の模様を。



今年は今週末が港まつり。

(ここでいう、やっさいもっさいとか、花火大会など。たしか2日くらいに分けてだったかなあ。

今はどうだろう)

僕らにとっては、となりの市で、街のエリア。

歴史もいろいろあってね。

僕らはよく花火大会を観にいきましたなあ。

友人と高校とかの先輩とか、

高校の私とバイト先の人達ととかね。

やっさいもっさいは、友人のつてで、一度だけ参加しましたねえ。

いやー楽しいったらないねえ。

今は禁止かも知れないけど、あれですよ、日本酒(これが、旨い日本酒でねえ)を

水代わりに飲みながら、踊り、声をあげて、何時間も練り歩くという。

別に暴れたりはしませんがね。

あのハイは、バンドとかとも違う、高揚感でしたねえ。

今はもっと踊りに集中かなあ。

外様なんで、くわしくはコメントできないですが。



まあ、夏祭りは全国であると思うので、そういう季節ですな。


またも。問わず語りですなあ。



そういえば。

最近は、以前に比べると、

ネット経由で音楽とか世相とか調べる時間が減りました。

正直、ほんの1ヶ月くらいですが、

もう情報の早さには追随していないし、できてません。


こうなると、縁があるなあ、とか、出会いは不思議だなあと、

偶然みたいなことが大事に思えてきます。

(いつまで、ゆっくりやっているかは、私も自信ないですが。飽きっぽいから)


今生きている自分の時計を、実感していたい、という感じで。


まあ、そんなところです。


夏だし。ノリでいいかあ。という安易な気持ちもありますが。


まとまらなくなってきたから、この辺で。


ついに、今日は一日、音源の落語三昧な私でした。

噺の位置づけは知らないんだけど、楽しかった。

彦六師匠、小三治師匠、志ん生師匠あたりを。

あまり持っていないので、あと談志師匠、小さん師匠あたりを聴いておわりそうかな。

でも、彦六師匠あたりは、繰り返して聴いてる。

まあ、これも、日記がわりにね。記録

では、どうかご息災で。

夏祭りなど、楽しめる方は、どうか良き時間を。


サイドB

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エアードラムに色々思った [思い出]

裏面の201回目になりました。

最近は、Yahoo!の検索の方では2ページから3ページ目に検索位置が落ちました。
さすがに、更新頻度も影響しているのでしょうかね。

so-netの文字をつけて検索してください。(って、何人の人に語りかけているのか、私)

さて、世間では、政治、国防、疫病他、色々とありますが、

正裏面(また変な日本語を使って。。。すみません)では気楽なことを書くので、

世間の雰囲気を無視しますが、ご容赦を。

今日は音楽に絡んで思い出を。だらだら、書いてます。予めご了承を。

「私とエアードラム」という、お題で。だから何って言わないでください。結論はないです。



私はかつて、ドラムを叩いてました。

でも、生のドラムセットは、最初に広い家の友人と一緒にローンで買った、

パールの入門用ドラムのみ。

中学1年生だったかな。 

一生懸命、買えそうな値段のメーカーものを探して。

なぜか秋葉原の小さな楽器屋で。

シンバルはね、ヴィンテージ(嘘。廉価版)でしたねえ。

でも初めてのドラムだから、皆もりあがりました。

バスドラの前を、ハイハットとカッターで、半月に切って。

座布団を友人宅から借りて突っ込んで。

スタンドもきゃしゃだったけど、今なら、ちょっと面白い音で遊べるかも知れません。

スネアもね、深胴がほしかったけど、入門版だから5インチの浅いやつでした。

クラッシュもなかったなあ。ジャズ用の入門セットだったのかな。もしかして。

当時はまだ3インチ台のは、素人には目につかなかいし、

高めのピッチにチューニングするという発想もなくて、地味に叩いてました。

でも続かなかったなあ、止まっちゃう。8ビートが。

シンバル4つ打ちがかえって難しく感じたり。

買ったのに、かなり早い段階で、見てよろこぶだけになってましたね。

他に楽器がいなかったからねえ。親まで巻き込んで入手したのに。

失礼なことをしたなあと反省する部分も残っています。

さてさて、そのうちに、その友達とは仲良しのままでしたが、叩きに行かなくなって、

それっきりでした。

それっきりなので、自分専用の生のセットを持っていたことが、1度もないのです。
(恥)

そのあとは、シモンズ。。。でなくて、パールのエレドラセットを持っていたのが唯一で。

何故かチャイナシンバルだけ、高校の頃から持っていましたけどね、そんな具合。

東京に出てきて1年した春に、スネアを買いました。

渋谷のライブハウス(今はのっぽなビルになって、無くなってしまった)に

出ることが決まったので、慌てて。

まあ、明るめのタイトな音で、、、今でも好みだと思います。

ライブには向くかなあと。

あと、キックと、スプラッシュシンバルを買ったかな。

キックは結局備え付けのを使ってましたね。あまり繊細なプレイがなかったせいか。


で練習ということなんですが、これが大変。

練習スタジオにドラムとベースで入るなんてのが理想。

自分だけでもいい。

でも、学校と仕事で寝る暇もない時でもあったので、無理なんですね。

だから、難しいフレーズは、なんちゃってパッド(少年マンガをガムテープでグルグルと)で練習。

お金を練習用パッドにまわすという発想が出ない頃でした。米買うのがやっとの生活で。


コンビネーションはというと、これが「エアードラム」なのです。

叩いているふり、キックを入れているふり。全部、フリなんであります。


実はそれをやり始めたのが、中学1~2年位。

この映像を毎朝観て学校に行っているうちに、自然になんでありました。

最初は指をスティックに見立て、机を叩いて音を出してました。



 
朝食を食べながら、ライディーンとか東風などを観て、
 
終わったら、ソリッドステート~で、机と床でドラム練習して登校するわけです。

親がいないときは、ハシを使って。反則ですね、行儀として。

それに実に、当然に、迷惑行為でして。

団地だったのですが、階下の方からクレームがつきまして。当然ですな。

家でできなくなって。

以来、学校です。

中学、高校と。

休み時間は、私、一人ずーっと、まあ、もう音がでるから、

エアーじゃなく指ドラムという感じなのですが。机と床叩いてました。

これも最悪で。。。

クラスメートからは変わり者とか、うるさいとか思われていただろうけども、

先生から叱られました。

中学の時は教頭先生にこっぴどく。

高校の時は階下が選択授業の教室だったのですが、そこの先生から。

一時はやめるのですね。深く謝って。


ただ、リズムには誘惑がありまして。

これを断つのは、煙草をやめるより辛いことです。

そこで、家でも、学校でも。

指をならさず、床をならさず、フリをする様になりました。

パントマイムとは言わないけど、完全にやっているフリですね。

高校位までは、そんな感じで練習して、スタジオでバンド全体で合わせてました。


東京にきてからは、オリジナル曲をやる様になり、要求される音楽のバックボーンも

自分の得意な世界から大きく変わりました。

難しかったり、強弱のニュアンスとかも要求されました。当然ですが。

(東京で参加したバンドは、ホコ天のバンドライブが始まった頃から活動して、
 最盛期の頃に自然消滅した感じです。

 でも、何故か、ホコ天に出ようという話にはならなかったです。
 たまに観に行った記憶もあるのですがね。

  ライブハウスにでられる人脈のあるメンバーがいたので、
  そういう気にならなかったのでしょうね。
 
 みんなで踊ったり、はねたり、歌ったりする様な、ホコ天受けする曲はなかったしなあ。)
   
楽曲のレベルがあがったので、

エアードラムだけでは、どうにも追いつかないけど、続けていました。

費用やスケジュールの都合(メンバーの学校、予備校、仕事等々)もあり、

いつも夜中に長くスタジオに入っていたので、練習時間が長くとれたから助かった面もあります。

合わせながら練習も兼ねてしまう様に対応してました。

メンバー間でのいい意味の緊張関係があったので、気も抜けなかったのも良かった。

眠いですねけどね、一晩中スタジオで練習だから。

ヨシノハウス(吉野家)や、大戸屋という定食屋さんの有難さが身に染みたのも

20数年前のその頃のことです。

そういえば、

高原合宿してスタジオで録音をした時に、テンポが苦手な曲があって苦労したこともありました。

エアー・ドラムもひと工夫しないと、だめとうことですね。クリックに合わせる練習も必要ということを、

痛感した体験です。当然のことですが。

各拍の頭をずっと打ち続ける、一見簡単そうな曲だったのですが、

テンポをジャストのまま維持するのが、これが結構むずかしかったですね。

基礎練習不足だったとは思いますがね。


タンタンタンタンとスネアが入って、キックが3拍4拍の裏に入る、

モータウン風の楽曲で良く耳にするパターン。

5分の曲を2時間位叩いていた様な。

最後の4小節で狂ったり。微妙に。クリックと合わなくなって。

いわゆる8ビートの曲は一発OKもあったし、だいたい2回~3回で録れたのですが。
(それでも多いか)

そんなことで、もともと練習が足りないのですが、怖い思いをしたので、

すごーくその後集中できたのを覚えています。

嫌な汗が出ましたしね。

ドラム録音した後は、他の楽器を録音するエンジニアをやる役目だったのですが、

ひきずりながら、やってたのを今でもよく覚えています。

まあ、でも楽しい思い出です。音楽漬けですからね。


さてさて。エアードラム系に話を戻して。


エアードラムって、やりすぎは良くないという話もあるとか。

そうだったのか。



でも、分かる気がします。

違いますからね、感触が。

それに、流れ、テンポ、バンド全体をひっぱるビートの押し出し方とかは、

体の動きとイメージのトレーニングだけでは、難しい。

グルーブなんて言い方もされることが多いですけど、そういうノリを出すことも、

バンドらしさの部分もありますからね。息が合うという部分です。

後は、私は得意でなかったですが、見栄えというのも。

ドラマーの役目は、実はフレーズをきちんと叩くことだけでなく、

色々あるということで。


でも、結局、離れてしまったけど、ドラマーだった私を支えたのは

エアードラム。完全否定できないなあ。


そういえば、ドラムはもう15年位は叩いていないです。

最後に人前で弾いた楽器はエレキギターでした。
(なんでかね)

今は、8ビートもセットではきちんとビートを刻めないだろうなと思います。

キックも、もたるだろうなあと。

でも、もうプロになることを夢見ているわけでもないので。

気楽で良いのですが。

先日、とある方にそんな話を軽くしたら、

「今からでも、遅くないよ。音楽を楽しむのは。やればいい。」

というお話を頂いて。

「あーそうかもなあ。今だから、楽しめるかも知れないなあ」とも思ったりしています。

高橋幸宏さんを見て、「音楽をやりたい。ドラマーになりたい」と思って。

いろんな音楽、いろんなプレイヤーに興味を持ちましたが、若い頃に影響を受けた、

象徴的なドラマーは、幸宏さん以外だとフィル・コリンズになりますね。

まあ、独特な技を使うので、コピーしたりした訳ではありません。

この方の才能豊かなところに魅かれてました。

中3の頃からかなあ。ソロ2枚目あたり。

それから、ブランドX含めて、色々と参加している作品、バンド、サポートなどは、わりと追ってます。
ライブはGENESISで1回、ソロで2回、観ることができました。





でも、結局は8ビートが好きなのかなあ。

リズムのパターンは、ウルトラボックスだけしか、多分、染み付いていない私です。
VISAGEとか。ニューロマンティックと言われますが、僕にはポップなエレパンクに聴こえる曲も多い。

バンドではシャッフルを多く叩きましたし、16っぽいのもありましたが、
やっぱり8ビートから始まったという気がして。自分とドラムのつきあいは。


とにかく、単純な8ビートに微妙なノリの違いをこめるというスタイルが、
好きなのかも。

単純に聴こえる人も多いでしょうが。



あと、KRAFTWERKも染み付いているなあ、テクノですが。 
あそこの打楽器は自作ですよ。最初。なんだか、実験的な感じの。短いスティック(電極がついていたかな)
で叩くのですね、小さいメタルのパッドを。


自分でオリジナルも作っていたので、自分で買ったものや借りたもの、もらったものなどで、

楽器やエフェクターが色々ありました。ギター、キーボード(シンセ)、ベース、他。

技的には全部がなんとなく程度でおわってまして。

だからこそ、先の方からの話がちょっと響きました。

半端のままだったから。ある意味、ドラムでさえ。

ただ、今からはハードルは高いし、他にやらねばならぬこともあるので、

ゆっくり考えようと思いますけど。

今はアコギをポロンとやる位ですね。まずは。それ位です。

指先が硬くなるだけで、弾いたつもりになるという、おそまつなもんです。

でもね。

長年のクセというのは、もう染みついていて。

稼ぎ人になって、カラオケとか行きますと、拍手じゃなくて、

刻んでしまうのですね。ビートを。キック付きで。

タム付きで。

ライブなんかに行ってもね、そうなんです。

ついクラッシュを入れたり。。。一緒に行った人が恥かしいのでよく注意されます。。。

頭で何かのドラムがなっていることがあります。

そんな時は調子の良い時。

だったら本物のドラムを叩きに行ったらいいのですが、

私は手軽なエアードラムを愛してしまうのですね。

そして、いつでも、何を見ても、

「叩いたら、どんな音するのかな。擦ったらどうか」

そんなことばかり、浮かぶこともあります。


さて、そろそろ、強制終了しますかね。

エアードラムは、練習には不足、弊害もあるかも知れませんが、

ある意味、持っていない楽器も、プレイできますしね。

エアーパーカッションもね。

難しくて、これは途中でやめちゃいますけど。

まあ、悪くないと。



打楽器、リズムの誘惑。

話が散りましたが、こんなところで。

では、また。

しばらく、特にイベントもないので、また、書きたくなったら、でてきます。

太陽を大事にしなくちゃね。[晴れ]じきに梅雨だ。

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ドーバー海峡のホバークラフト、XTC [思い出]

裏面の96回。
(日に2回に見えますが、今は夕方の更新です。たまたま)

やっと映像を見つけたので、アップしちゃいます。

イギリス・ドーバーとフランス・カレーという港同士を結んでいた、
ホバークラフトの映像です。

ユーロスターができたので、廃止されたのですが、
BBCニュースで最終運航のことを触れていたみたいです。
色々とアップしてくれる人がいるんですね。嬉しいことです。

2回のヨーロッパ旅行でイギリスと大陸の間の移動はこれを使いました。
フェリーの方が断然安いし、多分静かなのですが、興味半分だったかも知れませんが。

まあでも、CAさんなんかもいたし、フライトと呼称していたりして、気分良かったなあ。

フェリーの方は健在だそうです。

2000円程度で往復できるそうです。

旧西欧の若者が、旧東欧圏に格安便で向かい、そこで現地の良いホテルでパーティーする週末を楽しむ若者がいるという雑誌記事を目にしたことがありますが、皆がそんなにバブリーに遊んでいるわけでもなく、
物資移動や人の移動に遅くても安価な手段は必要なのですね。

ちょっと音はうるさげですが、映像をどうぞ。結構、内部の施設は良かったですよ。もう乗れないですが。



この時期のライブ映像(テレビ風ですが)は珍しい気も。XTCです。「King for a day」(Oranges & Lemonsから)



Mayor of Simpleton



ここからは、スカイラーキングのあたりから。
Grass


That's Really Super, Supergirl 音楽のみ


ということで、イギリスとういことで、XTCってな感じになりました。

こんな感じで、気分は世界中に飛んで回っております。

では、また。


サイドB

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1969~70年頃の東京(どちらかというと下町)というきっかけから [思い出]

やけに更新の早い裏面。22回目です。

今日も思いつきで「思い出」。ブログといってもリアルタイムではないですね。

東京オリンピックが終わって5年位たっていた頃。昭和でいうと昭和44年~45年くらい。
東京の下町と色分けされるエリアに住んでいました。父母は職住接近の環境で働き、僕は、小さな白黒テレビでウルトラセブンを見たり、駄菓子屋に年上の人たちにくっついて遊びに行き、家の前の公園で真っ暗になるまで遊ぶという、当時の典型的な下町の子供だったと思います。

周辺は、わりと川が多くて、親とバスに乗らないで移動をすることがあると(バス代節約だったのだろうなあ)橋を渡ります。
これが、何故か、橋の上の車の排気ガスはすごいのです。

ある種のバスやトラックのだけは、その後も今になるまで気にならないものもあるのですが、
目に見えて「煙」が通りすぎて、「におい」がまとわりつくんですね。ちょうど身長が低い子供の位置に。

その後、我が家は別の場所に引っ越し、だんだん、田舎暮らしへの道に進むのですが、
その最初の引越しとなる東京を離れるときに、件の橋を超えて行った映像が今でも、チラチラするのですよね。

寂しさとか、父母の表情なんんかと一緒に、僕にとっては、駄菓子屋とか公園とかと一緒に、「排気ガスの橋とも、バイバイだあ」と。

まだオイルショック前、高度成長の頃で、生産に勢いがあったのでしょうね。最近、下町(大分、雰囲気も変わっているのでしょうが)に用事があって歩いていたりすると、あの頃から比べれば排気ガスのにおいが、随分ましになったなあと、思い出したりすることがあります。喘息はじめ健康に関する問題もありましたし、色々な規制もありましたし、色々なことの結果なのでしょう。

「東京オリンピック前は、空がきれいで、星も良く見えた」話を、最近になって聞きまして。僕の知っている東京ではないな、と思いつつ、今回の経験を思い出したのです。

そういえば、当時は居住地域や親の用事の関係で、国鉄、都バス、都電以外の交通機関を利用しなかったのですが、
上野から浅草間だけの銀座線だけは地下鉄にのってました。
(浅草の手間で電気が消えて、車内のランプがつく地点が楽しみでしたね。当時の地下の上野や浅草の地下のお店や通りも。)

まあ、丸の内線位は絵柄はテレビで知っていて、そのうち東西線、都営地下鉄、相互乗り入れ等々徐々に覚えましたね。
気がつくと随分路線も増えました。

新しい地下鉄が増えて、「便利になった」のでしょうね。

時代も動きますが、注目の路面電車には、東京は戻れそうにないですね。
東京以外の街に期待でしょうかね。

東京は、交通渋滞を解消するために、都電を廃止したというのが子供の頃の記憶です。
事実かどうかは、確認していませんが。

仮に事実だとすると、本当に僕らは浮かれていたんだと思いますが、貧乏よりかは少しでも豊かさが欲しかった、
そういうことでしょうね。
でも、白黒テレビでも本当言ったら、十分、楽しかったなあ。

霞ヶ関ビルの時代からサンシャインの時代になって、ランドマークになり、六本木ヒルズやらミッドタウンの時代。

恵比寿駅にはビール工場があった。その後、列車でビアホールができたりと。
ガーデンプレイスしか知らない人も多いのですよね。


大崎も工場位しかなかったのが、インテリジェントなオフィスとタワーマンションの今風の街になって「えー」という感じですね。
品川も変わってしまったし、でもまあ、良かった面もあるのかな。

五反田が文化遺産の様に昔とあまり変わらないのが驚きではあります。

JR山手線を駅別に検証したり、眺めを点検したりすると、変化が分かるのでしょうね。
いつか、やってみよう。
でも、日暮里には驚きましたが。田端は大丈夫かなあ。

東京で生まれて国電に乗っていた自分には、山手線の駅はそれぞれに個性があって、いまだに気になるのです。
私鉄沿線に住み、通勤に使わなくなった今でも。

新橋のプラットホームに立つと、歴史を感じますよ。そういう方多いのでは。(乗り物好きですが、鉄男ではないです)


久しぶりの飛行機搭乗が近くなって参りました。あと少ししたら、気持ちを旅チェンジするかあ。
全ての音、風景が宝物ですが、旅はその極みで、嬉しいものです。
いつものB737-400。小型機ですが、大好きな機体です。[飛行機]

皆様も、毎日、良いたびであります様に[ひらめき]



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